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2017年5月13日土曜日

(872) 孫権 「信」がピンチを救う / 陳寿『三国志』(3)


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===== 引用はじめ

江東に孫権立ち、天下三分の実現へ

   江東(長江の中・下流域)で勢力を強めていた孫権は、中原を手中に収め強大化している曹操への対抗策として、天下を統一するのではなく三分する道を目指す。

   呉の重臣、魯粛が献策した「天下三分の計」である。

   それは劉備に荊州を貸して第三極をつくり、三国を鼎立させて天下の変を待つという構想で、群雄が漢帝を奉じて漢の復興を目指す情勢のもとでは革新的だった。

   のちに、手紙を書いていた曹操に「劉備が荊州を得た」の知らせが入ると、曹操は手に持っていた筆を取り落とした、と伝わるほどの衝撃である(劉備は曹操に敗れたあと、荊州の劉表集団に身を寄せていた)

   207年、名士を確保できず根拠地を持てないでいた劉備は、三顧の礼を尽くして諸葛亮を迎える。

   諸葛亮が劉備に示したのも、荊州と益州を拠点として江東の孫権と結び、曹操に対抗するという天下三分のグラウンドデザインだった。

   しかし、天下統一を最終目的とする点で、魯粛とは異なる戦略である

   208年に、孫権と劉備の同盟軍が「赤壁の戦い」で曹操に勝利(実際は周瑜・黄蓋ら孫権軍の武将が主たる戦力)し、曹操の天下統一は難しくなる。三国鼎立に向かって時代が動き出す――

===== 引用おわり

 

小見出しを一通り洗い出すと次のようになる(番号をふった)

(1)   孫子と呉の背景

(2)  「信頼」を土台とした孫権の決断

(3)   赤壁の戦い

(4)   呉の行く末

(5)   天下三分構想

(6)   歴戦の傭兵部隊長・劉備

(7)   三顧の礼

 

<各論>

(1)  孫子と呉の背景

死に臨んだ孫策は、幼少の実子ではなく弟の孫権に後継を託し、周瑜と張昭にその補佐を依頼した。孫権には「軍を指揮し天下の群雄と雌雄を決することでは、お前は俺に遠く及ばない。しかし、賢者の意見を聞き、才能あるものを用いて江東を保つことでは、お前は私より優れている」との言葉を遺した。

 
(2)  「信頼」を土台とした孫権の決断

曹操は孫権に帰属を要求した。張昭に代表される、中原から流れて来た名士たちの大半は降伏を主張した。孫権が降伏しても、彼等自らの資質により曹操政権内で出世できるからである。孫権と強固な絆で結ばれていた魯粛や周瑜らは「北来名士の思惑」や「曹操の欺瞞」「江東での孫氏の威信」「水軍の優勢」などを主張して降伏論を退け、孫権は曹操への抗戦を決意した。

 
(3)   赤壁の戦い

『三国志演義』によれば、赤壁の戦いにおいて、劉備の軍師となった諸葛亮が乗り込んできて、張昭らを相手に論戦を展開し、周瑜を出し抜き、さらには東南の風を呼び込むなど派手な活躍をしたことになっている。しかし『三国志』によれば、諸葛亮は、外交の使者として孫権に抗戦の決意を促す説得を行った以外、目立った功績はない。

 
(4)   呉の行く末

優秀な人材を抜擢し、信頼し、任せることのできた孫権の下、(赤壁の勝利をもたらした)周瑜、(天下三分の計を献策した)魯粛、(関羽から荊州を奪った)呂蒙、(夷陵の戦いで劉備を破った)陸遜などが活躍した。しかし晩年、警戒心の強くなった孫権が陸遜を流罪にし、憤死させた。「信」と求心力を失った呉は、衰退へと向かった。

 
(5)   天下三分構想

天下三分は、諸葛亮の卓越した見識で実現されたように思われている。しかし実際はそれに先立ち、呉の魯粛が「劉備に荊州南部の貸し与え、協力して曹操と対峙すべき」と主張し、その構想の流れで天下三分が実現されていった。強力な曹操軍という現実の下、最終目標は違うものの、短期的には蜀も呉も「天下三分構想」という選択をした。

 
(6)   歴戦の傭兵部隊長・劉備

劉備の前半生は「歴戦の傭兵部隊長」だった。「呂布や曹操にたびたび敗れているため、戦に弱い印象を持たれがちだが、身を寄せた公孫瓚・陶謙・呂布・曹操・袁紹らの群雄から、劉備は常に部隊や前線の城を任され続けている」。しかし、将来性、大局的な戦略、指針が欠けていた。それを補ったのが「三顧の礼」で迎えた諸葛亮だった。

 
(7)   三顧の礼

諸葛亮の参画により、劉備は三つの利点を得た

   「天下三分」という大きなグラウンドデザインを手にした
   諸葛亮の名声、人脈により、荊州の名士の参画が期待できるようになった(官僚力)
   外交能力が向上した(孫権との同盟は諸葛亮の尽力による)

 

出典:

渡邉義浩(2017/5)、 陳寿『三国志』~真の「英雄」とは何か~、「100DEで名著」、NHKテキスト

地図:【207年頃】


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